スーパーコンピューティング会議の歩み 執筆2002年2月 改訂2003年11月 小柳義夫  1988年から毎年開かれている"Supercomputing Conference"(97年から正式名 称は"High Performance Networking and Computing Conference")は、スーパー コンピュータあるいは高性能コンピュータに関する世界最大の会議であり、毎 年5000人もの参加者を集めている(表1参照)。この会議の歩み[1]を見ると、 高性能コンピュータの栄枯盛衰を実感することができる。92年以降で筆者が出 席した回については、報告書[2]を参照していただきたい。 0 前史  スーパーコンピューティングを冠した初めての会議は、恐らくKartashev夫 妻の主催するInternational Conference on Supercomputingであろう。1985年 12月から89年4月までアメリカで4回開催された(D. Kuckらを中心に、第2回か らはACM/SIGARCHのもとで現在まで続いている同名の会議は87年に始まったも ので別系統)。この会議は運営上いろいろ問題があったので、その反省から、 アメリカの国立研究所の協力の下に有志が始めたのがこのスパーコンピューティ ング会議である。IEEE Computer SocietyおよびACM/SIGARCHがスポンサーを務 めている。 1 第1回(オーランド)  初期の計画ではThe Supercomputing Conference '88 (TSC 88)の名の下にジョー ジア州ジェキルでの開催を予定していたが、結局フロリダ州オーランドを会場 に11月14-18日Supercomputing '88の名で開催された。筆者は、投稿した qcdpax関係の論文が採択されなかったため参加しなかった。基調講演はスーパー コンピュータの父Seymour Crayで、出席者の話によると、彼が演壇に上がると 後光が感じられたとのことである。総合講演はCarl Ledbetter (ETA Systems)、 バンケット講演はCarl Conti (IBM)であった。この回から、研究展示、ビジュ アリゼーション・シアターなど後まで続く企画が始まっている。国立研究所の スーパーコンピュータ部門の長を集めたCenter Director's Roundtableもすで に開かれている。記録によると、第19回ACM北米コンピュータチェス大会も開 かれたとのことである(1991まで続いたもよう)。  この年のスーパーコンピュータとしては、日本製では日立のS820、富士通の VP400E、日本電気のSX-2が活躍していた。アメリカではCray ResearchのX-MP とCray 2、CDCのCyber205、IBMの3090VF、ConvexのC2などのベクトル計算機と ともに、TMCのCM200、IntelのiPSC/2、MeikoのCS/i860などの並列計算機も登 場し始めていた。 2 第2回(リノ)  続いてネバダ州リノで1989年11月13-17日に開催され、筆者も参加した。サ ンフランシスコ大地震(10月17日)から1月も経っていなかった。qcdpaxプロジェ クトとしては白川友紀氏が招待講演を行った。日本電気の渡辺貞氏も発表した ばかりのSX-3について招待講演した。渡辺氏の講演は大入り満員で熱気にあふ れ、氏が質問に対してちょっとでも言いよどむと、「何か隠しているのでは」 と会場が興奮に包まれたことを覚えている。Evans and Sutherland社は、この 年発表したばかりのES-1を展示していたが、会期中に部門の閉鎖が発表された。 2台売れただけであった。[私がES-1の展示を見ていたら、三浦謙一氏が私の 肩を叩いて、「見てもしょうがないよ、今日潰れたんだから」と言われた。翌 日からは、社員が展示会場で職探しをしていたとか。]  基調講演でCray ResearchのRollwagen会長は「東西の壁が破られた今、我々 は東側にもスーパーコンピュータを売ることができるので前途洋々だ。」と述 べたが、筆者は、軍事予算が減ってむしろ売り上げは減るのではと心配した。 その後の推移を見ると私の予言の方が当たったようだ。  Center Directors' Round Tableを覗いたら、満員で立ち見まで出ていた。 主要なテーマはHPCCプログラムを政府に認めさせようということで、ある経済 予測家がもっともらしいグラフを示しながら、「いま○億ドルを投資すれば○ 年後日本に勝てるが、このままでは永久に日本の後塵を拝することになる。」 と日本を仮想敵国として熱っぽく議論していたのが印象的だった。その席にい た日本人は筆者ただ一人で、知人のアメリカ人 (David Kahaner氏)が私の方を 向いてニヤッと笑っていたのを思い出す。 3 第3回(ニューヨーク)  続いてニューヨークのロックフェラーセンターで、1990年11月12-16日に開 かれた。基調講演は10月にテラフロップスを狙うCM-5を発表して意気の上がっ ていたTMCのDaniel Hillisが「最速のコンピュータ」と題して講演した。 4 第4回(アルバカーキ)  その次の回は、ニューメキシコ州のアルバカーキで開かれた。筆者は諸般の 事情で出席できなかったが、この回の大きな出来事は、HPF (High Performance Fortran)が提案されフォーラムが始まったことである。また、こ の回から展示フロアのネットワークSCinet が用意された。 5 第5回(ミネアポリス)  続いて1992年11月16-20日、ミネソタ州ミネアポリスで開かれた。最高気温 が氷点近くで寒かったことを覚えている。この年はコロンブスのアメリカ到着 500年ということで"Voyage and Discovery"というサブタイトルが付けられて いた。  基調講演はイリノイ大学NCSA所長のLarry Smarr氏であった。氏はアメリカ の大学にスーパーコンピュータ設置の必要を説いて回った一人である。氏は、 これまでスーパーコンピュータでなされた科学技術上の成果、特にGrand Challenge問題の解決をきれいな絵で引用しつつ、いわば「スーパーコンピュー タは人類を救う」と高らかに歌い上げた。  前回に発足したHPF Forumは1年間精力的に活動を続け、HPF Ver. 0.4 を作 り上げた。会期中もワークショップが開かれ多くの参加者があった。  この回からVirtual RealityのCAVE (Computer-Assisted Visual Environment) が登場している。また初めて展示の開会式(Gala Opening)が行 われ、お祭り騒ぎを行った。またこのころから各社が顧客を集めるパーティが 開かれるようになった。初めて会議録がCD-ROMでも受け取れるようになった。 6 第6回(ポートランド)  続いて1993年11月15-19日にオレゴン州のポートランドで開催された。参加 者は初めて5000人を越えた。この頃からhigh performance computingより communicationの話題がふくらみ、Giga-bit test bed,やNIIなどのテーマが人 気を集めていた。会場自体にも、ATM, DS-3, OC-3などのWANが引かれていた。 参加者のためのEmail roomが初めて設けられた。  もう一つの特徴は、K-12と称して、幼稚園から高校までの教育に力を入れた ことである。今回のプログラムには中高の先生が多数参加していた。  この年の見所としては、IBMのSP-1、Cray Computer CorporationのCray-3の ボード、TeraのMTAの箱、ConvexのExemplarなどであった。  基調講演はNSF長官のNeal Lane氏であった。氏の講演は、希望を語りつつも、 HPCの有用性を弁解しているようで、苦渋がにじみ出ている感じであった。  この年Gordon Bell PrizeとSidney Fernback Awardが初めて授与された。 HPF Implementors and Users Workshopが開かれ、熱っぽく議論がなされた。 7 第7回(ワシントン)  次の回は、1994年11月14-18日に首都ワシントンで開かれた。この年は、KSR の閉鎖、TMCのChapter 11申請、Convex社のHewlett-Packard社による吸収など この業界には不景気な風が吹いていたが、企業展示はますます盛んで、Cray Computer CorporationがCray-4を展示したり(ただし直後この社は倒産)、 NECがSX-4を発表したり、IBMがSP-2を展示していた。日立はこの年初めて企業 展示に参加した。また、研究展示もますます盛んで、日本からもGRAPEなどが 出展された。  基調講演は、SGIのCEO のE.R. McCracken氏であった。氏は、「もはやスー パーコンピュータを国家資産として守る必要はない。真の資産は、スーパーコ ンピューティングに注ぎ込むスピリットである。」と、スーパーコンピュータ は今や普通のコンピュータとなったことを強調した。  HPF Forumが夕刻に開かれたが、各社のパーティと時間が重なり盛り上がり に欠けた。「HPFがうまくいかない可能性」なども語られ始めた。  Gordon Bell Prizeに日本の航空技術研究所のNWTが受賞した。この年は CD-ROMでなく紙の会議録が配られたが、最後の紙の会議録となった。 8 第8回(サンディエゴ)  1995年の会議は、12月3-8日にカリフォルニア州サンディエゴで開催された。 この年から、会議録はCD-ROMだけで配布されている。印象的だったのは、研究 展示、特にアメリカの国立研究所の積極的な発表であった。なかでもイリノイ 大学を執心としたCAVEが人気を博していた。日本からも8機関が出展した。企 業展示も盛んで、とくにIBM, SGI, Cray Researchなどが元気がよかった。反 面、活動を停止したCray Computer CorporationやKSRはもちろん、その後ほど なく閉鎖したnCUBE, MasPar, Meikoなども現れず、主役の交代を印象づけた。  基調講演はバージニア大学のW. A. Wulf教授で、「昔はスーパーコンピュー タというと特殊なものという感じがあったが、今や市販品を使ってHPCを作る ことができる。この会議はtime machine conferenceだ、つまり10年後の社会 を映している。10年後のデスクトップは何か、人々より早く見通さなければな らない。」と述べた。  Center Directors' Round Tableでは、いわゆるHeyes Reportをもとに、連 邦予算の減少の中でスーパーコンピュータセンターがいかにあるべきかを議論 していた。とくに、MetaCenterとしての重要性が強調された。  HPFはそろそろ暗雲が達始めていた。プログラムの"HPF: User's Perspective"がドタキャンになり、HPFのBoFもあまり意気が上がらなかったよ うだ。HPF2の必要性が叫ばれる一方で、HPF1.0でも膨大なのでcoreを定義しよ うという意見もあった。  Gordon Bell Prizeの3件のうち2件は日本であった。一つはNWTによるQCD 計算、もう一つはGRAPEであった。  開会式の前日(4日)、IEEEのSSS (Subcommittee for Scientific Supercomputing)は、日本におけるHPCCをテーマに会合を開くことになり、三 浦謙一氏と筆者がその企画を任された。まず渡辺貞(NEC)、河辺峻(日立)、三 浦謙一(富士通)の三氏が各社のHPCの現状と将来を語った。続いてコンピュー タ関連の研究プロジェクトについて、廣瀬直喜・福田正大両氏(航技研)がNWT について、泰地真弘人氏(東大)がGRAPE-4について、坂井修一氏(RWCP)がRWC-1 について講演した。最後にLloyd Thorndyke氏が日本訪問調査の概要を報告し た。日本への関心が非常に高く、神秘の国と思われがちな日本についての認識 をアメリカで深めたことは有益であった。 9 第9回(ピッツバーグ)  1996年の会議は、11月17-22日にペンシルバニア州ピッツバーグで開催され た。筆者はPanelとRoundtableの委員会の末席を務めた。この年は、ENIAC完成 50周年、IEEE Computer SocietyおよびACMの創立50周年ということで、計算機 の歴史展示が設けられた。関係者から日立の初期の資料がないという連絡を受 けたので、河辺さんにお願いして、HIPAC101とHITAC5020Eのパネルを飾ること ができた。  この年の大事件は、2月26日にSGI社が、過半数の株式を取得することにより、 Cray Researchを買収したことである(その後2000年にTeraがCray部門を買収し、 Cray Inc.となった)。サーバーCS6400の部門はサンマイクロに移った。しかし SGIは、Cray部門が450MHzのAlphaを使ったT3E-900を売り出し、同時にSGI本体 がcc-NUMAのOrigin2000を宣伝するなど企業展示でも特に元気がよかった。  もう一つの大事件は、Seymour Cray氏が自動車事故のため10月5日に70歳で 死去したことである。開会式でもBreckenridge氏が追悼演説を行い、ERAへの 入社、CDCの創立、Cray Researchの創立など歴史を追ってユーモアを交えなが ら語った。「彼は、性能と同じくらい物理的なデザインのエレガンスを重視し た。彼は生まれながらのオプティミストだった。われわれはシーモアを、だれ も通らない道を選んだ人としてずっと記憶するであろう。」  基調講演は、最初の女性のIBM FellowとなったF. Allenで、「今後virtual enterpriseが重要になり、それを可能にするのがHPCCである。」というような ことを述べた。  この回の特徴はASCI (Accelerated Strategic Computing Initiative)につ いてのパネルが3コマも続いたことである。これはクリントンのビジョンに基 づくものであり、核実験禁止条約のもとで核抑止力を維持するために、核実験 や核兵器の管理を計算機に置き換えようという計画である。そのため、複雑な 物理過程を3次元でマルチスケールでシミュレーションできるだけの計算資源 を提供しようとするものである。現実には、大規模な計算科学技術のプロジェ クトと言ってよい。パネルには多くの若い人が群がり、何かおこぼれに与れな いか必死で眺めていた。  またPaul Messina (CalTech)を座長としてPetaflops Computingのパネルが 開かれ、ハードウェア、ソフトウェア、応用などについて議論がなされた。目 標は2010年。Fran Berman(UCSD)の"If Pataflops is an answer, what is the question?"というコメントは面白かった。  この会議で発表されたTop500では、筑波大学計算物理学研究センターの cp-pacsが368.2GFlopsで1位を獲得した。この年からTop500のBoFが開かれて いる。  Gordon Bell Prizeでは、NWTとGRAPE-4が再び受賞した。  HPF のBoFではHPF2が大きな話題であった。 10 第10回(サンノゼ)  今回はシリコンバレーの中心サンノゼで1997年11月15-21日に開かれた。こ の年から、会議の正式名をHigh Performance Netwroking and Computingに改 めたが、SC97の略称も保たれた。今回と次回は筆者がプログラム委員を務めた。  この年の大事件は、NSFが3月28日に従来の4センター体制から、NCSA (Illionis)とSDSC (San Diego)の2カ所と中心とする連合体制に切り替えたこ とである。これに関するパネルも行われた。  もう一つの大事件は、アメリカのNCARの調達問題から、米商務省が8月に、 日本の3社に対して最大454%にも及ぶダンピング率を決定したことである。し かし、3社とも企業展示に堂々参加していた。  ASCIのパネルが1コマだけあったが、プラットフォームより応用の話が中心 であった。Gordon Bell PrizeはASCI Redのオンパレードだった。 11 第11回(オーランド)  1998年の会議は11月9-13日フロリダ州オーランドで開催された。筆者は前年 に続いてプログラム委員を務めた。10周年目の会議ということもあって、この 会議の創始者の一人 Al Brenner氏の努力により、展示の一角に歴史展示が設 けられていた。  企業展示で元気がよかったのはIBMであった。604eを使ったASCI Blue Pacific (LLNL)のボードや、Power 3 チップをSMPに組んだボードや箱を展示 していた。反面日本の企業は元気がなく、Top500でも上位10位から日本のマ シンが姿を消してしまった。  研究展示もますます盛んで、日本からもcp-pacsを含め9件出展した。ネット ワーク時代らしい展示はiGRID (The International Grid)で、世界中(カナダ、 シンガポール、日本なども含めて)の種々の分野の研究者と共同しようという プロジェクトである。村井純氏は、慶応SFCの「情報処理系論」を展示会場か ら行ったとのことである。  プログラムでもNGI(Next Generation Internet)のパネルがあった。アメリ カではARPAnet以来、DARPA, DOE, NSFなどの政府機関の主導でインターネット を立ち上げたが、その後大学関係のネットワークなどは民営化された。しかし、 インターネットが研究・教育上重要な道具になると、より高速でしかも性能が 保証されたネットワークが必要になり、NGI, Internet2, Abileneなどのプロ ジェクトが始まっている。  この年の事件は、PITAC(情報技術に関する大統領諮問委員会)の報告で、会 議の総合講演で共同委員長のKen Kennedyが講演した。連邦政府は、目的指向 の短期的な研究だけでなく、長期的でリスクを含むような研究に投資すべきで あるという方向性を明確に打ち出した。 12 その後  この会議はその後も毎年開かれていて、筆者も1999年を除いて出席した[2]。 参加者もだいたい5000人前後で、安定している。言うまでもなく一番重要なの は投稿論文であるが、様々な努力によりその数も増大し、多少玉石混淆である が、高い水準を保っている。筆者のあと、松岡氏や三浦氏もプログラム委員を 務めている。  HPCは科学技術全体の基盤技術であり、ベクトル並列からコモディティ並列 へと技術のトレンドが移り、Gridに見られるような資源の分散化、バーチャル 化も進んでいる。各国政府の戦略的な支援策もあって順調に進展している。今 やHPCは、コンピュータの広いスペクトルの孤立点ではなく、連続スペクトル の一部を構成しているのである。この会議は今後も継続されるであろう。 [1]http://www.supercomp.org/ [2]http://olab.is.s.u-tokyo.ac.jp/~oyanagi/conf.html