教皇庁文化評議会総会報告
小柳義夫
日時 1999年11月18日(木)〜20日(土)
場所 Rome, Piazza San Calisto 16
テーマ 新千年期に向けての新しいヒューマニズム
 
 3年に一度とかいう文化評議会総会(Plenary Assembly)が開かれたので、顧問(consultor)として(自費で)参加した。会場はローマ市内のテベレ川西側のいわゆるTrastevere地域にあるバチカンの飛び地の領土で、文化評議会の他に、信徒評議会、国際カリタス、浜尾大司教の移住・移動者評議会などの事務所も同じ一角にある。昔のローマ教区事務所だそうである。宿を取ったPantheonから歩いて20分ほどであった。
 バチカンの会議に行くなどはじめてであるし、いったいどうなることか大変不安であったが、どうにか無事に参加して来た。参加者は、正式メンバーの枢機卿や大司教が20名ほど、顧問が10名ほど、あと事務局関係者など合計40人ほどであった。このうち信徒は、私と、韓国のSeoul国立大学のProf. Josef Kwang-Kyu Lee、無信仰研究所所長のProf. Gaspare Mura、それとUNESCOカトリックセンターのMr. Gilles Delianceの4人であった。「信徒が4人しかいない」といったら、インドのGeorge Palackapilly神父(バンコック会議の講師)が 、「(Monsignorでない平の)神父は2人しかいない。」と笑っていた。Pittau大司教も顧問で出席者名簿に名前があったが、一度も姿を見せなかった。それから、筆頭のメンバーであるRatzinger枢機卿も名簿にあったが現れなかった。
 会議の使用言語は、4割がイタリア語、3割が英語、2割がフランス語、1割がスペイン語という感じであった。高位聖職者達はだいたいローマで勉強した経験があり、イタリア語が堪能のようである。司会進行がそもそもイタリア語であった。英語、イタリア語、フランス語への同時通訳があったが、場合によっては話を追うのにだいぶ苦労した。通訳はシスターや女性信徒がやっていたが、何語の発言があっても、すぐにこれらの言葉に変換してしまうのには感心した。時々、早口すぎて通訳が間に合わず、「Please speak slowly」などと怒鳴るのだが、当の発言者はイヤホンを入れてないので全然伝わらず大笑いになったこともあった。ほとんどは文書が配布されず、数少ない配布文書も大体イタリア語やフランス語なので、以下の報告の正確さは自信がない。
 最終日に教皇謁見が予定されていたが、いろいろあった後中止されてしまった。御健康がすぐれないのかと思ったが、Vatican Information Serviceによると、ドイツ司教団の"ad limina" visitが何グループか入ってしまったようである。
 
1.18日午前
 
 9時からラテン語の聖務日課(Laudes)で始まった。私も公会議前の信者なので多少の心得はあるが、だいぶまごついた。詩編は全然理解できなかった。最後にVeni Creatorを歌って聖霊の導きを祈った。
 最初にPoupard会長のIntroduction。かれは、キリスト教が文化からの挑戦を受けていることを強調し、文化との対話の重要性を述べた。文化といっても、ヨーロッパ(とくに共産主義崩壊後の)、アジアなど、また非キリスト者、非信仰者で違う。パウロ6世が述べているように、現代文化のなかで、キリスト教的な新しいヒューマニズムを作って行かなくてはならない。
 続いて、秘書のMons. Bernard Arduraが、1997年3月以降の活動報告をイタリア語で延々と述べた。
 続いて討論に入った。各メンバーがそれぞれの見解を短く披露するという感じ。ポーランドのZycinski大司教は、"pseudo-dialog"の危険性を指摘した。いろんなグループが対話を呼びかけ、司教まで招いて会議を開くが、これは一種の洗脳で、対話ではないと危険を指摘。コミュニケーション事務局のFoley大司教(アメリカ出身、上智のカリー学長とフィラデルフィアでの中学の同級生とか)は、マスコミの問題点を指摘した。メディアの規制緩和により、利益を追求するために道徳的価値や宗教が軽視される傾向がある。誰か(発言者不詳)は、科学の名の下に新しい形の無神論が勢力を伸ばしていることを指摘。これは、非明示的な唯物主義だ。メキシコのPacheco大司教は、自由の過度な尊重により、人格神の超越性が無視されていると指摘。ミラノのMartini枢機卿(次期教皇の有力候補といわれる)も西洋文明と無神論の問題を提起した。西アフリカのSanon司教は、宗教的無関心、とくに宗教は個人のものであるという考えを批判した。また、スロベニアのRode'大司教は、信仰と宗教的寛容のdichotomyについて論じた。Friend司教(アメリカ、ルイジアナ)は、科学者の間に宗教的なものへの乾きを感じると述べた。諸宗教対話事務局のArinze枢機卿(アフリカから教皇がでるとすれば有力候補とか)は、宗教間の対話とシンクレティズムとの微妙な問題を論じた。先日、諸宗教指導者サミットが行われ教皇も出席したが、大変難しい。もし断れば悪い印象を与えるし、もし行けば宗教相対主義を認めた形になる。
 休憩のあと、11時30分から再開、まずPoupard会長が教皇からのメッセージ(フランス語)を読み上げた。よく聞き取れなかったが、20日付けのL'Osservatore Romanoにフランス語とイタリア語訳とが掲載されていた。また、ZENIT(イタリアの通信社)の19日のwebページには要約が出ていた。「現代人、特に若者は、人間、生と死、世界とその意味についてあまりにも多くの異なる考えに浸ってることを実感していない。現代社会が発信する思想は、しばしば真理から離れ、神を除外し、人間を絶対化している。このようなイデオロギーは人間から神の似姿に作られた人格の本質的な次元を奪う。このような骨抜きは、超越と関係のない人間観を作り、人間への大きな脅威となっている。教会は諸文化との対話にあたって、現代人に健全な人間観を発見させ、まことの神にしてまことの人であるキリストへと導かなくてはならない。キリスト教的ヒューマニズムは特定の文化でなく、すべての文化を貫く人間観である。キリストの救いにより、異なる文化を隔てていた壁は破壊された。十字架の愚かさは全ての文化的限界を克服する知恵である。社会全体は懐疑主義と宗教的無関心をもたらすかもしれないが、このことを知性と勇気をもって語るべきである。文化的多様性は、人間の豊かな宝であるから、教会はそれを恐れることはない。教会はこの多様性により、福音のメッセージを受肉させるのである。」何か会長自身の基調講演と似ていたが、こちら側で起草したものであろう。
 続いて、事務局のFleetwood神父(Liverpool)がアンケートのまとめを行った(英語)。204の回答があったそうだ。要点として、制度化された宗教と霊性との区別の問題がある。イギリスの司教協議会でもあるニューエージ系の人の名前が上がるが、これは問題だ。もう一つは、環境と人間との関係で、動植物と人間を同一の次元におくある種の生気論(vitalism)がある。極端には、人間より動物の方がより大きな権利があるということになってしまう。
 対話についても多くの回答に触れられていた。あるムスリムの国の司祭は「対話とは神と人との関係である。」これは、共同体内だけでなく共同体間の関係のモデルでもある。などなど。
 これについてもいろいろ議論があった。動物は殺さないが、中絶には無関心な風調とか、科学者との対話とかが議論された。
 
 このあと昼食。イタリアだから1時から3時までたっぷり時間がとってある。会場の向かいにあるレストランで皆で昼食。大体、言語別の席で固まっていたが、共通語はイタリア語のようだ。primoとsecundoのフルコースにワイン。そればかりかコーヒーの後には、グラッパなどの濃いリキュールも。これで、よく午後の仕事ができると思うが。
 
2.18日午後(3時〜6時)
 
 午後は、「非信仰者との対話の神学的・司牧的基礎」というテーマについて議論。発題は、Martini枢機卿、Rode'大司教、Walter Kasper大司教(Rottenburg-Stuttgart, Germany, 教会一致推進事務局)の3名。
 Rode'大司教は、東ヨーロッパに限ると前置きして、非信仰者とくに元マルクス主義者との対話について述べた。重大な状況としては、ニヒリズム、相対主義、主観主義が広がっていることである。昔は論争になったが、今は無関心が支配的である。Kasper大司教は、神を拒否するものとして、ドーキンスの利己的遺伝子、ワインバーグの最初の3分間、社会的生物学、宗教の遺伝学的解釈などいくつかの疑似科学を挙げた。そして、宗教というものをそもそも知らない無関心層について言及した。
 続いて自由討論。多くの発言者が問題にしたのは、いわゆるpopular cultureである。これは教育において伝えられる通俗的な科学理解であり、マスメディアによって増幅されている。R. H. Pacheco大司教(メキシコ)は、倫理も非信仰者との対話の基礎だと指摘したが、これに対して、素朴な人々はどうしても強い意見になびくので、方向付けが必要だという意見が出された。C. Hummes大司教(ブラジル、サンパウロ)は、対話の相手に非カトリック者、無関心層、相対主義者の3種類を区別すべきだと主張した。対話においてはidentityとothernessの弁証法がある。また、Kasper大司教は、第二バチカン公会議の「信教の自由に関する教令」と回勅「信仰と理性」を対比し、キリスト教の霊性と仏教とのambivalenceについて述べた。また敵対的な環境の中で対話に開かれているとはどういうことか、という議論もあった。
 17時45分から、ラテン語の夕の祈り(Vesperae)。
 
3.19日(金)午前
 
 9時からlaudesのあと開始。この時間のテーマは、「世俗化された国々における、司牧者と信徒に対する挑戦。対話の前提条件と文化の福音化」であった。まずA. M. Ambrozic枢機卿(トロント、カナダ)、W. Friend 司教(Shreveport、ルイジアナ)、D. B. Murray司教(アイルランド)による発題があった。
 Ambrozic枢機卿は、信仰者同士の内的な対話と、世俗との外的な対話を分けて考えるべきだと前置きして、内的な対話においては、世俗、とくにテレビが信仰者に影響を与えていることを指摘した。神学者は今日の無神論に責任がある、なぜならデカルト、ニュートン以来神はもはや世界に関係がなくなったからである。キリスト者は劣等感を抱き、時代に迎合している。神に言及しなくなった。ケベックのカトリックはかつて理想的だったが今はwaste landになってしまった。信徒の宗教的レベルを向上する必要がある。外的な対話は大変困難である。キリスト者はしばしば文化的ゲットーに退いてしまう。神への従属の自覚が消えてしまった。
 Friend司教は、まず世俗化された社会においていかなる対話が可能かと問い、世俗化は必然的な現象であり、単なる観想的な宗教実践を否定する。新約聖書のメッセージは、世俗とキリスト教の領域の関係は一方が他方を支配するというものではなく、宗教的な世界は世俗とは全く異なる領域であることを教えている。信仰は知識を置き換えるものではない。世俗化と世俗主義を混同してはならない。バチカン公会議の現代世界憲章(36)は、地上の現実の正しい自治について述べている。対話は、現代世界憲章(92)にあるように、福音を共有するための使徒的使命である。我々は、明晰さ、柔和、信頼、慎重さをもって、使命を果たさなければならない(パウロ6世、Ecclesiam Suam)。対話と文化の福音化のための必須事項として、自己の信仰を認識することと、相手に心を開くこと、そして相手を知ることの3つをあげた。司牧者への挑戦として、信徒のニーズと興味に合った機会を選ぶこと、信徒に理解できる言葉を使うこと、祈りの内に主の働き人となること、キリストを中心におくこと、特定の聖句や教えに執着して信仰の全体的な豊かさを無視する人をただすこと、教会を共同体と見ること、などを挙げた。結論として、教会の教えと生きた経験が、世俗の現象とどう関係するかが問題である。世俗性を、憂うべき否定的な出来事とか、宗教的に中立な過程とかでなく、神学的に積極的な意味をもつ挑戦であり現実であると見なくてはならない。
 続いてMurray司教は、対話の条件として、自分で深い心の飢えを感じていなくてはならない、死とか神とかいう問題は、無意識の上層部にあるが、それを考えたとき教会に向かわないのが問題である。として、ダイアナの死が人々に与えた影響について論じた。新しい世紀での対話の可能性は、信仰者も非福音的な世界に生きていることを自覚することにある、と述べた。
 このあと議論に入った。M. Gaidon 司教(フランス、『芸術、文化、信仰』司教協議会議長)は、フランスの現状について、神とキリストと教会に反対していると述べた。フランスの教会はコックスの『世俗都市』そのものである。非神聖化と世俗化の関係が問題である。ポーランドのJ. Glemp枢機卿は、ダイアナの死と、1週間遅れたマザーテレサの死とを対比させて論じた。C. Hummes大司教は、ブラジルの状況について触れ、若者が自己中心的になっていると指摘した。Arinze枢機卿は、神学者は現代の無神論に責任がある、なぜなら彼らは人間の要求に応えていないからだ、と述べた。
 休憩のあと、「文化の核心におけるキリスト教的ヒューマニズムのインカルチュレーション」というテーマで、主としてアフリカの問題が提起された。C. W. Tumi枢機卿(カメルーン)、R. S. Ndingi Mwana'a Nzeki大司教(ナイロビ、ケニア)、A. T. Sanon司教の3名が発題をした。
 Tumi枢機卿は、ブラック・アフリカのコンテクストで、と前置きして、アフリカのキリスト者は文化から疎外されてはならない。キリスト教は文化を破壊するものではない。アフリカ文化の多様性は、福音への招きである。政治的な状況は複雑だが、教会だけが貧しきものの声を代表している。恐れはない、楽観的な気持ちでできることを全てやるのだ、と述べた。途中で、polygamy(一夫多妻)の問題にも触れたが聞き取れなかった。
 Ndingi大司教は、教会は文化間の対話のセンターであるが、ギャップもある。信仰と文化の総合を進め、これによって信仰と文化の両者を相互に豊かにしなければならない。そして、アフリカにおけるキリスト教的な結婚の問題を論じた(内容は理解できず)。
 Sanon司教は、まずカルトの問題を取り上げた。アフリカには、ファンダメンタルなカルトや、モスレムとの混淆宗教のようなカルトなどがあり、政治的な動きをしている。他方、キリスト者は自分の信仰を私的なものと考えている。信仰と文化の関係については、神を都会や文化の外ではなく、そのただ中に見いださなければならないと論じた。典礼については、伝統文化の再解釈の必要性を述べた。
 そのあと議論に入った、Ndingi大司教はアフリカ・シノドスにおいて家庭の問題が議論されたことを指摘した。また、ミサにも社会的な要素が入り込んでいる、と述べた。Foley大司教は、外交官としてアフリカにいた経験から、セネガルの典礼がラテン語、フランス語、地元の言葉を組み合わせてうまくやっている例を述べた。結婚について、カトリック者間の離婚率は比較的低い(アメリカの話かアフリカの話か不明)ことを述べたあと、他宗教の人の結婚の祝福の可能性の問題を提起した(日本ではやっている)。また、イタリアでは、洗礼や初聖体は宗教的というよりも、社会的な必要事項となっていることを指摘(だからどうだと言ったのかは不明)。Ndingi大司教は、多くの結婚が同意の不足ということで解消されているがこれでよいのかと発言した。C. M. de Cespedes神父(キューバ)は、キューバの現状として、多くのアフリカ人が連れてこられて、シンクレティズムの傾向がある。1/3はアフリカ系、1/3はヨーロッパ系、1/3は混血である。また、Hummes大司教は、シンクレティズムとインカルチュレーションとを識別することの困難を指摘した。アフリカのミサは、感謝の祭儀と文化的要素の統合の例である。しかし、結婚は伝統的な要素との問題がある。アジアでも同じ問題がある。アジアの典礼は、ラテン典礼である必要があるのか、東方典礼でもいいのではないか。G. Mura教授は、inculturationだけでなく、inter-culturationも大切である。例えば、洗礼として(ヒンドゥー教徒のように)ガンジス河に浸してはいけないのか? と問題提起した。最後に、Arinze枢機卿が、われわれは原理原則を議論すべきで、local churchの代わりをすることはできない。各地の司教協議会が研究すべきであると結んだ。
 
4.19日午後
 
 昼食後は、「共産主義後の文化的変化:信仰の文化に対する救済的対話の最適なイニシアチブは何か」というテーマで、東ヨーロッパの現状について議論された。発題はまず、L. Moreira Neves枢機卿(司教聖省長官?)とGlemp枢機卿。
 Neves枢機卿は、一方では無神論、他方では無関心が蔓延していることを指摘した。世俗主義は、神は存在しても自分に関係ないと考える。リーダーが不足している。聖と俗のdichotomyが忘れられている。80%の人は人格神を信じていない。多くの宗教性は信心的で、迷信的で、混淆的で、アニミズム的である。現状は宗教的な砂漠だ。教会は、真の宗教的な使命を保たなければならない。
 Glemp枢機卿は、ベルリンの壁の崩壊の背景、哲学、影響を論じ、民主主義にはなったが、ポルノや麻薬のコントロールが利かなくなったと指摘した。教会は、忍耐ではなく影響を与えなくてはならない。
 続いて議論に入った。Rode'大司教は、問題はsexではないかと指摘。また何人かの人は、大衆的信心やnew pentecostal movementについて意見を述べた。司祭の養成の問題も論じられた。
 休憩の後、Zycinski大司教(ポーランド)が10年間のポーランド教会の変化について問題提起をおこなった。幻滅の時代で、教会は非難されてる。調査によれば79%は教会に属しているが、反聖職者主義的で、聖職者はバチカンのスパイだと思っている。ある人は、"God, yes. Church, no!"と言う。教会に分極化が起こっている。レジオ・マリエは政治的になり、多くの声の一つを代表しているに過ぎない。その深い根はナチの時代からある。それに、アメリカ文化が入ってきている。教会の中には、1)反動的な動きをするグループ、2)キリスト教のメッセージと政治を混同するグループ、3)政党が教会を取り込もうとする動き、4)倫理を排除しようとするポストモダーンのグループなどがある。問題は、toleranceが最高の徳のように思われていることである。
 このあと短く議論が行われた。とくにpost-modern thinkingについていろいろ議論された。Foley大司教は、アメリカの独立宣言や憲法が、深くキリスト教的価値に基づいていることを指摘した。
 前日と同じく、晩課(Vesperae)の祈りで終了した。
 
5.20日(土曜日)午前
 
 この日は、まず9時から、隣接のSanta Maria in Trastevere教会で記念ミサを行った。なにしろ、枢機卿が10人近く、司教・大司教も10数人という豪華なミサであった。共同司式以外の信徒や修道女の方が少なかった。式文は、はじめイタリア語のようであったが、奉献文あたりからラテン語になったようだ。私は第一朗読を英語で頼まれていた。あんな大聖堂での朗読は慣れていない上に、朗読はマカバイ記の長い部分で、しかも戦争用語や変な地名がたくさん出てきて閉口した。福音は、フランス語だった。
 朝食の後、「神、人間、自然の近さに対するキリスト教的証し。福音の救いのメッセージを現代の文化に挿入するには」というテーマで議論した。 まずArinze枢機卿が、聖書において水、星、雷、木、動物などの自然、そして人間の結婚や貧富まで神の祝福と考えられていることを指摘し、さらに日本の神道も、自然の尊厳を認識していることにも触れた。しかし、現代人は肉としてしか鳥や動物を知らないのは問題である、と述べた。
 Pacheco大司教(メキシコ)は、消費主義が現代文化にマイナスの影響を与えていることを指摘した。
 Ivan Dias大司教(ボンベイ)は、アッシジのフランチェスコとマザーテレサを、真にキリスト教的な証であると述べた。そして、創り主なる聖霊は全ての文化の上に働いていることを強調した。インドでは、多民族多文化であり、直接説教することは難しい。しかし、3%以下のカトリックが、初等教育の12%を担当し、障碍者、HIV、らい者のケアの30%を担っている。しかし、ファンダメンタルなヒンドゥー教徒から暴力を受けることもある。さらに、アルバニアの現状についても述べた。
 このあと自由討論。Friend司教は、科学技術が生活を脅かしていることを述べ、風力や太陽エネルギーなどの代替エネルギーの必要性を強調。George Palackapilly神父(インド)は、インドの典礼と精霊信仰の関係について意見を述べた。私もここで発言し、この総会で科学が否定的なコンテキストで議論されることが多いが、科学と科学主義を区別しなければならないことを強調した。
 休憩の後、秘書のArdura神父が、文化評議会関係の今後の様々な催しを8つ紹介した。私が興味を持ったのは、Jubilee for Men and Women from the World of Learning (Vatican, 23-24 May, 2000)である。Cabibbo, Roger Penrose, J. Polkinghorneなどの講演も予定されている。また、次の総会にはぜひとも中国からの参加者を得たいということであった
 
6.総括講演
 
 最後に、Poupard会長がconcluding talkをフランス語で行った。要旨は次の通り。
 第2千年期の終わりに当たり、大きな文化的変化を経験している。これは、各地の教会にとって、とくに司教にとって大きな挑戦である。公会議後、対話ということが魔法のように言われているが、これは目的ではなく一つの手段であり、キリストの愛のメッセンジャーとなるために必要な態度である。対話は知識人の間に限られるものではない。多くの若者は存在を理論的に考えないが、それを生きている。子供の誕生や親の死、愛や苦しみのような重要な局面で人生の意味を考えるのである。
 他方、支配的な文化においては、キリスト教の信仰を周辺に押しやる傾向がある。なぜ、いつもキリスト者の方が信仰を正当化する必要があるのか。なぜ、無神論者は無神論を正当化する必要がないのか。暗い力が教会に反対している。生命の文化が、死の反文化に出会っている。多くの若者は、無意識のうちに物質主義、快楽主義、超越のないプラグマティズムの中に生きている。われわれの文化は、寛容の文化であるが、真理の絶対性に対してだけは寛容ではない。絶対は危険であり、暴力であると考えられている。ここから、キリスト者には、政治、経済、教育、文化において、信仰を括弧にいれるという誘惑がある。キリスト者がキリストに従うことを隠しているなら、どうしてキリスト教的文化を創造できるだろうか。
 現代は無関心の時代なので、見えないものを見えるように表現する芸術、美と内省をもたらす典礼、兄弟の顔を見いだす愛などが重要である。現代の人間観の偉大さと悲惨さの前で、聖書的な人間観への回帰にによって世俗的な文化の人間観的挑戦に応えることができる。全ての大陸の全ての文化において、これが福音のインカルチュレーションの挑戦である。その実は、世界的な次元での新しいキリスト教的ヒューマニズムである。この意味で、福音と文化との関係は、(キリストにおける)ロゴスと人性との関係に似ている。
 インカルチュレーションは教会全体の問題であるので、地方教会は使徒的教会の普遍性の守護者である聖座と常に連絡を保たなければならない。しばしば、人口の弱い階層だけが世俗化され、無神論的になり、懐疑的にになっている。大部分は、イデオロギーをもたないがプラグマティズムに毒された文化の中に生きている。これは極端な人間中心主義である。神が存在してもしなくても関係ないではないか、と若者はいう。しばしば、特にラテンアメリカでは、このような分離が見られる。その感性は、多少なりとも混淆的、迷信的、信心的な儀礼と神話が染みついている。しかし、日々の実践は、それから超越している。80%以上の人が神を信じると宣言するが、その80%の80%の人にとって神は人格的なものではなく、宇宙的な概念でしかない。教会が、社会政治的なコミットメントを強調すると、人々は必要とする宗教的欲求をセクトに求めるようになる。この意味で、最近の社会学者の分析とは異なり、教会の衰退によるギャップは、無神論に向かうどころか、様々なセクトや破壊的カルトによって埋められている。
 共産主義後の世界は、集団主義から個人主義に移行している。かつては自分の好みに反して国家に従っていたが、個人は、パンとサーカスを求めるようになった。文化の司牧は、芸術家と忍耐強く接触し、小教区や司教区の祝祭を奨励し、何が聖書の最も重要なテーマであるかの論議を起こし、スポーツの教育的効用を利用し、博物館や図書館を整備するよう配慮しなくてはならない。特に注意すべきことは、メディア文化の影響である。排他的になることなく、教会に固有の社会的なコミュニケーションの手段、とくに新聞とラジオを推進することは重要である。同時に、よく養成された信徒が、メディアで活用することも必要である。共産主義後の文化においては、実践的な唯物論が弁証法的唯物論に取って代わり、新しい形の資本主義、実践的全体主義を生じさせた。この新しい状況において、信仰と文化との対話は、倫理的な領域で行われなければならない。いかなる民主主義も根本的な倫理的価値なしに成立しない。人間の尊厳と道徳的責任は、第3千年期の対話の基礎である。共産主義後の社会について、不幸の予言者は教会の活力が急激に落ちると予想したが、たとえばポーランドの司祭召命は10年前に比べて大きく上昇している。
 新しい千年期の新しい挑戦を前に、教会は大きな希望を持って、福音のメッセージを時代の文化に組み込むことを止めない。「キリストは、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(Gaudium et Spes 22)のは新しいキリスト教的ヒューマニズムだからである。
 
 このあと、昼食を(前日よりゆっくり)取り、解散した。
 
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